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15.  宿命の地「カレリア」−戦争の傷痕をめぐって−

我々の住んでいるアパートはPunkkerikatuという通りにある."katu"はstreetの意味で,Punkka Streetと訳すのだろう."punkka"がbunkerを意味することはこちらで手に入れたフィンランド語-英語辞書で知っていた.そのbunkerであるが,当初私はここの地形が小高い丘になっていることに由来するものだとばかり思っていた.我々のアパートの玄関先にもコンクリートでつくったbunkerらしい構造物があるし,向かいの駐車場にもある.それにしても,わざわざ玄関先に作ることはないだろうと思っていた.その本当の意味を知ったのは,つい先日のことである.
 

アパート玄関先(左),および向かいの駐車場にある 
コンクリートでできた小高い丘を模したような構造物
bunkerを再度辞書で調べてみると「(軍) 陣地構築物, 掩蔽(えんぺい)壕; 隠れが」とある.つまり,ここに過去,塹壕が作られたのだ.戦う相手はもちろんロシアである.「もちろん」といっても,私自身もフィンランドの独立の歴史などこちらに来るまでしらなかったし,ロシアという大国に接していてそれなりの苦労もあるだろう,といった程度の知識しか持ち合わせていなかった.最近,ようやく少しづつフィンランドの苦渋に満ちた歴史を知り,フィンランド,フィンランド人のことを誤解なく理解できるためには,そうした歴史を踏まえなければならないと感じるようになっていた.ちょうどその頃,この構造物の意味を同じアパートの住民から教えてもらったのである.
 
 

 

フィンランドより一足早くスウェーデンが国内統一を完了していたがために,フィンランドは12世紀初頭にスウェーデンによってキリスト教に改宗させられ,以来6世紀ほどスウェーデンの一県として支配されることになってしまう.スウェーデンはその頃から北欧の大国であり,デンマークやロシアと戦争を繰り返していたが,その度にフィンランドの若者は徴兵され,多数の犠牲者が出た.結局,スウェーデンがロシアとの戦いに敗れることで,フィンランドはロシア支配下に移ることになる.18世紀初頭のことである.

その頃のロシアの支配のやり方はいたって自由で,フィンランド人は独自の通貨を持つこともでき,議会で立法行為を行うこともできた.そうした空気のなかで,フィンランド人の民族意識が高まり,独立国家への自覚に目覚めることになる.そのきっかけになったのが民族伝承の神話を編纂・編集した「カレワラ」の発行(1835年)である.ロシアがこうした動きをだまって見ているはずもなく,20世紀初頭,弾圧に乗り出すことになる.議会の立法権を剥奪しただけでなく,言論,出版,集会の自由を停止した.結局,当の総督(ボブリーコフ)はフィンランド愛国者に暗殺されてしまったのだが(1904年), ロシアは日露戦争の真っ只中で,しかもご存知の通り,日本に負けてしまった.フィンランドが比較的日本に対して好意的な印象を持っているのは日露戦争のおかげである,という話はよく聞かれる.フィンランド国内の独立運動はますます盛んになり,フィンランドは独自の軍を持つようになる(1916年) .フィンランド軍の大半は大学生だったという.さらに,フィンランド軍立ち上げに日本陸軍の諜報機関が手助けを行っていたことは,日本でもあまり知られていないのではないだろうか.ロシア国内情勢が混沌としている機会にフィンランド議会は独立を宣言するが,そのまま政府軍の白軍と赤衛軍の間の内戦に突入することになる.ソ連はもちろん赤衛軍を支持したものの,軍事干渉するほどの余裕がなかった.もし軍事干渉していたならば,確実にフィンランドはソ連に併合されていたであろう.白軍を指揮し,この内戦を収めたのがマンネルヘイム将軍であり(ヘルシンキに彼の銅像,彼の名前のついた通りがある),かくしてフィンランドは長い支配の歴史に終止符を打ち,独立国家として誕生することになる(1917年12月6日).
 

 
 

独立後(1932年),フィンランドとソ連との間には不可侵条約が結ばれていたが,大国ソ連は1938年にフィンランドに対し,ソ連軍基地を設けること,およびフィンランドが他国に侵略された場合にソ連軍をフィンランド領内に入れることを要求してくる.フィンランドは中立を訴えこれを拒否するが,その後,スターリンはドイツとの間に,ソ連によるフィンランド支配権が秘密裏約束された独ソ不可侵条約を結ぶ.まさしくソ連進撃の前兆である.危機を感じたフィンランドはスウェーデンに助力を申し入れるが,スウェーデンは中立を理由にこれを拒否.そして再度ソ連からカレリアの割譲他の要求があった.ちょうどその頃,ラトビア,エストニア,リトアニアのバルト三国はソ連の要求を呑み,ソ連軍の駐留を許していた.が,ほとんど占領に近い状態であり,事実,数日後に武力併合されてしまうのである.かくして,1939年11月30日,ソ連軍による大規模なフィンランド侵入が開始され,「冬戦争」が始まることになる.

フィンランドは果敢にも(悲壮にもというべきか),ソ連軍と戦うことを決意する.ソ連軍は30個師団55万,戦車2千台,航空機2千5百機,かたやフィンランド軍はわずか9個師団13万,軽戦車56台,航空機3百機,弾薬わずか2ヶ月分,にもかかわらずである.ソ連にしてみれば赤子の手をひねるほどにしか考えていなかった.実際,あまり早く進みすぎてスウェーデン国境を超えないようにと注意を受けていたという.

しかし,フィンランド兵士たちは零下40度という厳冬の中で,ソ連軍の前進を食い止めたのである.フィンランド軍を率いたのは,かのマンネルヘイムである.フィンランドのスキー部隊のゲリラ戦法により,ソ連軍の連絡網や補給線は寸断され,戦車は火炎瓶により破壊された.なによりも,フィンランド軍の方が冬の寒さに対する装備が数段優れていたという.いずれにしても,大国ソ連と戦おうとする勇気ある決意と,実際,その侵略を阻んだことは,多数の国々の同情・敬意を集めた.が,持久戦に持ち込まれ,さらにソ連のプライドをかけた怒涛の攻撃により,フィンランドの防衛線は突破されてしまうのである.英仏の連合軍をスカンジナビア経由でフィンランドに送ろうという救援作戦も立てられたが,スウェーデンが軍の領内通過を拒否するのである!英仏はこれを無視し,強行する計画を立てていたが,フィンランド軍は限界にきていた.そしてさらに,ソ連はフィンランドが連合国の救援を受けることを恐れ,フィンランドとの和平工作を承諾していたのである.フィンランドに対するソ連の要求は過大なものであり,これを受け入れることはフィンランドが不具になるに等しかったが,カリオ大統領は涙とともに降伏承認文書に著名した.この冬戦争で,フィンランドは2万5千人の戦死者と4万4千人の負傷者を出した.ソ連は10万人戦死者を出し,負傷者はその数倍に上ったとのことである.
 
 

 
 

「冬戦争」終了後,フィンランドは再びドイツとソ連の戦いに巻き込まれることになる(継続戦争).ソ連のフィンランドに対する圧力は脅威的なものであり,フィンランドは何とかしてそれを牽制したい.しかし,隣国といってもスウェーデンは例の中立外交でとりあってくれず,ノルウェー,デンマークはドイツ支配下にあり,バルト三国はまさしくソ連支配下にあった.したがって,ナチスドイツだけがソ連を牽制するに十分な力を備えているように,フィンランドには見えたのである.しかし,ドイツに近づいたことが,かえってフィンランドを苦しめることになった.フィンランドはドイツからの兵器購入協定を結び,またノルウェーのドイツ軍に国内通過を認めた.そしてそのことが,ソ連にフィンランド国内のドイツ軍に対する軍事行動を起こす口実を与えてしまうのである.フィンランドはこのことで,アメリカ,英国との関係も悪化させてしまった.フィンランドはただちに中立を宣言したが,1941年6月,ソ連による攻撃が始まる.フィンランドはドイツとの「分離戦争」を主張した.つまり,ドイツがソ連と戦っていることと,フィンランドが戦っていくことは全く関係ないと.しかし,すでに時遅しである.1944年,ソ連軍がカレリアに大攻勢をかけ,フィンランド軍の主要防衛線は寸断されてしまい,退却せざるを得ない状況に至った.実は,フィンランドはヒトラーに,単独講和をしないという約束をさせられていたのであるが,当のリーチ大統領が自ら辞職し,このヒトラーとの約束を無効にしてしまうことで,休戦にこぎつけるのである.これによって,フィンランドはカレリア地方を失い,多大な賠償金を支払うという条件をのむことになった.しかし,フィンランドは独立を守った.リーチ大統領は戦後,戦犯に指名されるのであるが,国民の大統領に対する敬意に変化は無かったという.マンネルヘイムにせよ,リーチ大統領にせよ,国民に敬愛される政治家が日本にいるだろうか?フィンランドの独立はフィンランド国民の勇気と優れた政治家によって守られたし,12月6日の独立記念日が本当の意味での記念日として国民の間に定着しているのも,日本人である私から見れば羨ましく思えるのである.
 

 
我々アパートがあるこの丘周辺には,「冬戦争」が行われた直後に大規模な軍事施設が建設された.ロシアとの国境近くでもあり,冬戦争の経験からも,重要な「最終防衛線」をここLappeenrantaからImatra,Kuovolaに作ったのである.かつて,この辺りは木が生えていなかったらしく,この小高い丘からは周りが良く見えたらしい.軍事的にも重要なポイントだったようだ.塹壕のほとんどは,アパートの建設等で取り壊されたものもあるが,かろうじて一つだけ地下壕が残っている.実際には,大学生の有志により再建されたとのことである.丘に登ると無数の溝が掘られているのが見える.ここに身を隠しながら射撃するための塹壕である.いまは草も生え,言われなければそうだと気づかなかっただろう.湖近くには巨大な石が無造作に置かれているが,それは,ロシアの戦車を食い止めるためのものらしい.冬場は湖も結氷するが,わざわざ戦車が湖を渡って来ないように氷を割ったという.
 
 
唯一残る地下壕.覗き穴が見える.
覗き穴近影.外部からの弾丸が乱反射しないよう反射板が付いている.
塹壕跡.このような塹壕が無数にある.
弾薬格納庫
戦車の進撃を食い止めるための巨石
大学生有志により作られたモニュメント
 
 
 
 

私を案内してくれた隣人は,歳もほぼ私と同じである.彼はおじいさんからよく冬戦争の話を聞かされたという.彼自身は歴史が好きだとは言えないと言っていたが,自国の独立に関る事柄は常識のように思っているからだろう.それ程,彼は歴史を知っていた.おじいさんが冬戦争の話を何度もするのには閉口したらしいが,それでも誇らしげに語るその理由を彼自身,理解しているように思えた.我々日本人,特に私のような戦争を知らない世代にとっては,戦争の話は全く遠い時代の物語である.しかしここフィンランドでは,ソ連が崩壊し冷戦が終結したつい数年前まで,まさにいつ戦争が起きても不思議ではなかったのである.最近になり,かつてフィンランド領であったカレリア地方に里帰りするようソ連から提案されているとのこと.北方領土でも似たような話があったと思うと,彼の口から言われたときには驚いた.日本−ソ連の国境問題に対する関心は我々よりも高いのかもしれない.彼にはそんなことは言えなかったが.

参考文献:
武田 龍夫,住んでみた北欧,サイマル出版会 (1981)
武田 龍夫,物語 北欧の歴史 モデル国家の生成,中公新書1131 (1993)

6/29/1998

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